引きこもり・ニート脱出

ギリギリ健常者「ギリ健、ギリ健常」とは?&ギリ健はどう生きればよいか

日々の仕事や就職を考えるにあたり、自分は能力が低い…とお悩みではないでしょうか?世の中には能力の高い人、障碍を持った人、色々います。みんな生まれ持っての能力や、努力によって得たもので、この社会を生き抜いています。能力の高い人や低い人がいる以上、恵まれない条件で世の中を戦わなければならない方もいます。そこで今回は、能力が低いギリギリ健常者(グレーゾーン)の生き方、どんな仕事をすれば幸せになれるかを考えてみます。なお、ギリギリ健常者の略として「 ギリ健常 、 ギリ健」も含みます。

先に言いたいことをまとめます
・ギリギリ健常者でも
 時間を掛けたことは出来るようになる
・自身を過大評価してはいけない
・ギリギリ健常者でも出来る仕事はある

目次
〇ギリギリ健常者(ギリ健)とは
〇ギリギリ健常者のつらさ
〇ギリギリ健常者の自覚を持つ
〇大学に行けてしまうために悲惨な場合も
〇時間をかければできることもある
〇「居ることが仕事」な仕事をする
〇「能力を積み上げられる」仕事をする
〇まとめに代えて

ギリギリ健常者(ギリ健)とは

まず、ギリギリ健常者の定義からしていきます。

健常者であるが、相手との意思疎通やコミュニケーション、やり取りが出来ない。健常者ではあるが、ケアレスミスが非常に多い。健常者ではあるが、理解力が高くなく、物事を理解するのに時間がかかる。など一般の健常者と比べて大きく不得意な分野があるものの、障碍者ほどではないと判断される方々です。

100点満点のテストで赤点が30点だとすると、31点から35点くらいを取る人をイメージしてみてください。テストで35点ということは、この人は試験内容については3分の1くらいしか理解できていませんよね。確かに赤点を取ってはいませんが、それで問題はないのかと言われると判断に困るかと思います。

ここで、赤点を取った人には補習(支援)という救済措置があります。ギリギリ健常者は赤点ではないので、補習(支援)はされません。テストで35点でも、60点でも、100点を取る人でも、同じ赤点ではない人というカテゴリーでひとまとめになります。しかし、赤点を取った人も、ギリギリ赤点ではない人も、同じように平均から大きく下に位置しているはずです。むしろ補習(支援)という救済措置が無い分、赤点を取って補習で学んだ人(支援された人)より、その分野の理解を問われると厳しい結果になるかもしれません。仮に全員に再テストが行われたら、ギリギリ赤点回避組は赤点を取って補習で学んだ人より点数が低くなってしまう可能性があるのです。
※テストはあくまで例えです。

世の中には健常者と障碍者のカテゴリーしかありませんが、同じ健常者の中でも能力差は大きいことが分かって頂けたかと思います。残酷な言い方ですが、ギリギリ健常者という概念に当てはまる方は決して救われることはありません。仮に、テストで31点から35点くらいの方も、障碍者として社会的な支援をしようとします。とすると、次は36点から40点がギリギリ健常者になるだけですよね。

基準を変えてギリギリ健常者を救うと、いたちごっこになるので、基準はそうそう変わりません。結局どこかで線引きをする必要があります。社会による福祉や支援の基準がある限り、基準にギリギリでひっかからないギリギリ健常者がいる事実も、消えることはありません。ギリギリ健常者は社会福祉に救われない以上、自分自身で自分自身を救うしかないのです。

ギリギリ健常者のつらさ

私もギリギリ健常者で、生きていくのはつらいなと日々感じています。

繰り返しますが、世の中には健常者と障碍者のカテゴリーしかありません。それがギリギリ健常者のつらさの原因です。そのカテゴリー分けに伴い、健常者ならこれくらいは出来るだろうという決めつけ、常識(笑)、雰囲気を感じたことはありませんか?

しかし、先ほども述べたように、健常者同士であっても能力に大きな違いがあります。

つまり、学校や会社、社会で決められた

「障碍者ではないならこのくらいは出来る」

という、個々人の能力を無視した決めつけが、ギリギリ健常者が生きていくうえでの最大の壁です。学校や仕事などで、周りは出来るのに自分だけは出来ないことに悩んだ経験はありませんか?

学校で、周囲が出来るのに自分だけ出来ずに恥ずかしい思いをしたかもしれません。学校などはまだマシで、ギリギリ健常者が仕事選びを間違えると、自分の低いスペックで出来るような仕事ではないのに、達成できない仕事を振られて沈むことになります。

再びテストの例えになりますが、100点や70点、50点を取るような人が問題なくできることも、31点を取るような人には難しいものがあります。出来ないものは出来ないのですが、周囲はそんなことを理解してはくれません。なぜなら同じ健常者のカテゴリーで生きているからです。

ここまで暗い話になりましたが、ギリギリ健常者でも上手く立ち回れば生きていけます。ここからは、ギリギリ健常者の生き方についてお話しします。

ギリギリ健常者の自覚を持つ

ギリギリ健常者に加えて、自分の能力を客観的に見られない方は、まず世の中を上手く生きていくことが出来ません。自分に対して実力より高い評価をし、自分は人より優れているはず、自分は出来るはず、と思うタイプの方がいます。なのに現実はそううまくいかない、出来ないとなると、そのギャップで自分の心を苛みます。 自分の能力を過大評価するのは止めましょう。

もちろん、何かの根拠や実績に基づくきちんとした評価なら、そのまま受け止めればいいです。そして自分がギリギリ健常者程度の能力では?と感じたら、自分を一度客観的に見てみましょう。 自分の能力をきちんと見極めれば、能力に基づいた現実的な判断が出来るので、ギリギリ健常者が生き抜くための対策を立てることが出来るようになります。 ギリギリ健常者の話に限りませんが、問題解決の第一歩は現状をしっかり認識、自覚することから始まります。

そして、自分がギリギリ健常者だと自覚したなら、自分に出来ること、出来ないことをまとめてみてください。世の中の「健常者なら普通これくらいは出来る」という勝手な基準があったとしても、出来ないものは出来ません。自分の中でまとめておき、出来ないものは出来ないと割り切ることが大切です。もちろん出来ないままではよくないこともあるので、そこは現実的な対策を立てます。

大学に行けてしまうために悲惨な場合も

大学に行けるケースのギリギリ健常者について見てみましょう。大学に行ける時点で能力低くないという意見もあるかと思います。ですが勉強というものは、時間を費やせば、ある程度は何とでもなります。

そして、無勉強で偏差値50の大学に行ったAさんと、3000時間の受験勉強で偏差値60の大学に行ったBさんがいたとします。どちらが頭がいいかは単純に測れませんよね?もしAさんが3000時間勉強すれば、偏差値65の大学に行けるかもしれません。Bさんが無勉強なら偏差値50の大学に行けないかもしれませんし、偏差値55の大学に行けるかもしれません。

受験勉強の結果には、本来の頭の良さ、勉強に費やした時間、両方の要素があります。それを無視して、受験勉強の結果は頭の良さだけで決まると考えてしまうと「自分は能力が高いという危険な勘違い」をしてしまう場合もあります。

中には学歴だけはあるが、コミュニケーション能力やとっさの判断能力が大きく劣る人もいます。そんな人が現実とかけ離れた高い自己評価を持ったまま、学生時代を過ごし、社会に出ると悲惨です。受験勉強という成功体験があるので、自分は能力が低いなどと考えたりはしません。上手くいかなければ社会が悪い、仕組みが悪い、他人が悪い…などと間違った原因に目を向けるかもしれません。その結果はケースバイケースですが、ぎくしゃくしながら会社に居るか、退職する場合もあります。まあ私のことなのですが。

「時間をかけたことは出来るようになる」という事実を頭に入れておくと、自身を過大評価することは無く、円滑に生きられると思います。

時間をかければできることもある

ギリギリ健常者は「能力がない」わけではなく「能力が低い」「能力が著しく低い」ことが特徴です。ですので一般人より多くの時間をかけた分野なら、一般人と張り合うことが出来る場合もあります。ゼロに何をかけてもゼロですが、ゼロでないなら何かをかければ成果が残ります。

能力が低いことを自覚しているなら、能力を伸ばすことに時間を使うべきです。
自分は能力が低い…と自信を無くし、ニートになる方もいますが、ニート活動などに費やす時間リソースなどそもそも無いのです。金持ちだから金持ちになる、という理屈があり、金持ちはお金があるから条件の良い投資などをしてさらに金持ちになるというものです。同じようにニートだからニートになります。何もしないニートだから何も出来るようにならず、ニートのままであり続けます。出来るようになりたい何かがあるなら、結局はその何かをやるしかない、というのが人生です。

「居ることが仕事」な仕事をする

ここからは、ギリギリ健常者がどんな仕事をすれば、人生をうまく転がせるかを紹介します。

世の中にはギリギリ健常者にとってつらい仕事もあります。その一方で「決まった時間に決まった場所に居ればいい仕事」である、施設警備員、セルフガソリンスタンドスタッフなどの仕事があります。私も施設警備員の経験がありますが、これらの仕事は、ギリギリ健常者と一般人の能力差が、給料に大して反映されません。

なぜなら、営業職の評価軸である売り上げや、事務職の評価軸である決まった時間内にどれだけ仕事が出来るか、という「能力に依存する評価軸」がありません。そもそも、居てくれるなら能力はあまり気にされないからです。給料は高くありませんが、能力が低くてもしんどい思いをすることもありません。逆に言うと「能力を求められない仕事」をすればいいとも言えます。少なくとも、ノルマを達成できない営業職などに就き「給料泥棒」と罵られるよりは幸せになれる可能性は高いと考えています。

「能力を積み上げられる」仕事をする

例え生まれ持った能力が低くても、問題解決能力、分析力、情報処理能力などの能力は伸ばすことが出来ます。そこで、仕事をすればするほど自分の能力に反映される、情報技術職のような選択肢があります。先述した「居ることが仕事」よりは給料も高いです。

一般人のようなスピードで成長するのは無理かもしれませんが、全く成長が出来ないわけでもないからです。一般人が1年で到達できるスキルに、2年3年かけて到達することになるかもしれません。逆に言えば2年3年かけることで、経験1年の一般人と張り合うことくらいなら出来るようになります。

私も現在はシステムエンジニアとして働いています。数年この仕事をしていますが、さすがに入社当初よりは仕事が出来るようになりました。入社当初は能力の低さで人の足を引っ張る存在で、非常にしんどい思いをしました。でもいくつか仕事のパターンをこなすと、経験という貯金でなんとか立ち回れるようになります。

また私は「コミュニケーション難ありギリギリ健常者」なので、常にコミュニケーションが必要な仕事でなければなんとかやっていけます。ニート期間などもありましたが、なんだかんだで5年以上の社会人経験を重ねることが出来ました。それでも簡単な電話応対ですら未だに嫌ですし、人に話しかけるときはどもることもあります。それでも1日の大半はパソコンに向かって、ああでもないこうでもないと考えたりしているので、コミュニケーション能力の低さが問題になる場面はあまりありません。他人の意図を理解するための最低限のコミュニケーション能力は必要とはいえ、営業職ほど必要されているわけでもありません。

能力を積み上げる系の仕事に取り組むのであれば、入社前に資格試験や業界分析などの下準備をしっかりすることをお勧めします。私もシステムエンジニアの仕事をする前段階で、基本情報技術者の試験勉強とプログラミング言語の学習をしていました。それでもきつかったのですが、新人研修などで周囲についていくことは出来ました。ギリギリ健常者でも、今の時点で出来ることがあるなら、尽くせる手は尽くしておくことが将来につながります。

まとめに代えて

ギリギリ健常者は辛いのに何も支援されない…と嫌な気持ちになるかもしれませんが、立ち回り方次第だと思います。私もギリギリ健常者ですが「時間をかけたことは出来るようになる」ことを前提にして行動しています。そして「自身を過大評価しない」ということを心がけ「出来ないことは出来ない」と割り切っています。

世の中にはギリギリ健常者でも出来る仕事はありますし、一般人のように立ち回ることもできます。ギリギリ健常者に対して世の中は厳しいですが、ふて腐らずに生きていきましょう。

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